後藤研究室

数学と学生生活

2012年4月8日

私は,ここ 3 年間,学部数学科 1 年生の授業「基礎数学2・同演習」(後期)を担当しています。2011 年度は授業の初回に,受講学生たちに対し「もしかしたら,純粋に数学を学ぶということがあってもよいのではないか」という話をしました。いつも思うのですが,彼ら学生たちはこれまで何かを学ぶときに,いつもそれ自身ではなく,他の何かのために(例えば,大きくなったときに必要になるからとか,少しでも良い上級学校へ進学するためとか,学業成績を挙げるためとか,就職に有利であるからとか,社会に出た時に役に立つ)とかいった理由で,学んできたのではないかと思います。
数学に限って言えば,数学はこんなにも世の中の役に立っているのだといった説明や,このように役に立つ数学を手に,社会の発展や人類の福祉に貢献するのだという理想は非常に大切であると思いますし,学習の動機付けとしても有効な面があるだろうとは思いますが,大学生の特権は,そのような理由からではなく,自分の内面から発する「内在的な動機」で学ぶ対象を選びこれに触れることができること,そして「学問研究に浸りきる」といった生活を,その気になれば 4 年間は継続できることだと思います。実は,2 年生になっても 3年生になっても,そういう生き方があり得ることが掴めず,迫りくる中間テストや期末テストの準備をする,皆で集まってワイワイと過去問を検討し,どうしてこれで正解なのか分からないけれど,ともかく解答を覚えることが勉強することであると信じて疑わない大学生たちを見ていると,哀れだなあという感想を持ちます。どうしてこんなになってしまったのだろうと思います。
実際には,小学生や中学生・高校生の内面には真実を求める思いがあるのだけれど,接する親や学校の先生たち,出会う大人たちが「功利的な努力」にしか価値を見出さないため,次第に窒息してしまったのかもしれないと時々思います。学部の学生たちと親しくなって,腰を据えた話をすると,彼らの内面にも(実際の能力や素質はともかくとして)そういう「役に立つ,立たない」を超えて「本当のことを知りたい,学びたい」という真摯な思いが隠されていること,眠っていることを見出すことがしばしばあるからです。
受け売りですが,ガンジーは人類の悪徳として

を挙げているそうです。思い当たることがあるだけではなく,第二次世界大戦における敗北後,日本はこれらの悪徳にまみれ続けたような気がしてなりません。戦後の偉大な経済的成功もこれらの悪徳の上に可能であった。そしてこれらの故に,今,日本はどこかわけが分からない状態に陥っているのではないのかなという印象があります。私は,学生たちがまず学ぶべきは,もしかしたら数学よりも前に,人生と社会について語るべき言葉を持つことではないかと思うことがあります。
大学で学ぶ数学は,もちろん,高校までに習った数学の延長上にあります。より正確にいうと,高校までの数学を大きく発展させたものです。本質的に違ったものではありません。
しかしながら,こういう説明は「50mプールも水たまり,太平洋も水たまり」という議論に似ていますね。「そりゃそうですよ」と思える部分と「だからといって,どちらも同じ水,というのは,無理だろうな」と思える両方があるように,高校までに学んできた数学と大学で出会う数学の間には,確かに延長上にあると考えられる部分と,非常に大きく異なる両方があります。つまり,発展といっても,単なる延長ではない。
ですから,大学で勉強するのは,なかなか大変です。大学に進学するときには,始めに堅い覚悟を決める必要があります。新しくものを学ぶために奮闘努力し,エネルギーを注ぐ決意を固める。そのためには,大学進学を志す人は,少なくとも大学で何を学ぶ(つもりである)かよく整理し,目的を明確にしておくことが重要です。大学では,努力だけではなく,「幸運」というか,面白いと思えるテーマや優れた先輩や先生との出会いが,学問・学生生活の転機となる可能性が大きいので,そういう幸運を「待ち構え,逃がさない」姿勢も必要です。サークル活動を含めた学園生活の重要さですね。さてこういった「自分の姿勢」が確かになったとして,次に重要なことは,自分が学びたいことについてその大学がどういうカリキュラムを用意しているかを知ることです。指導者層にどのような人材を配置しているか,確認することも非常に重要ですよ。教育という営みは,実は,半分は先生の腕前次第なので。
ですから,進学する大学は選ばなければいけません。どこでも同じということは,ない。ブランド性や消去法で決めるなどというのは,もっての他で,私の考えでは,大学進学の資格がないと言ってもいいくらいです。
大学が用意するカリキュラムが自分に適しているかどうかは,実際に教育を受けてみないと分からない部分が多いので困るのですが,実りある大学教育を受けるために知らなければならないこのような前提条件について十分に説明しないで,「大学で学ぶ数学は,こんなに楽しく面白い,高校生にもわかる,そもそも高等学校までの数学とそんなには違わない」と述べ,教育という営みが指導するものと指導されるものの共同作業「共育」であることを伝えず,大学が本来は「学問の場」であることを説くこともなく,学園生活は楽しいことばかりと言い,卒業後の進路や就職状況を説明するだけで大学の数学科への進学を奨める,あるいは決めて行くというやり方を,大学の側の営業努力としては大いに買いますが,実は私はあまり適切なことだとは思っていません。包装については説明しているようだが,中味については何も説明していないような気がする。
大学が高校までと違うとしたら,違うからこそ「凄い」のであって,高校までと大差ないのであれば,大学に進学する理由はない。大学に進学しようとする人々は,この違いを「掛け替えなく,決定的なこと」と評価して入学してほしいと,私は願います。もしも実社会や企業が大学教育に価値を見出すとしたら,実はこの違いの故だと思うからです。
数学科 4 年生の A 君には 1 年浪人している間に,塾で幸運な出会いがあったようです。数学を教えてくれた先生が,上に述べたような事情を懇切丁寧に繰り返し説明してくれたらしいのです。「大学で学ぶ数学を高等学校までの数学と同じように考えていたら,間違うぞ」,まず「目標が違う」,だから当然「勉強法が違う」し,「評価の仕方も違う」。例えば,「大学では,与えられた練習問題が早く正確に解けるようになったとしても,数学を理解していると評価されるかどうか,それは分からないよ」,「大学で学ぶ数学は,純粋な真理として現れる」,「こういう数学を理解し身に着ける,数学ができるとは,一体どういうことを意味するのか,説明が難しい」が,数学を勉強するとは,もしかしたら,そういう「数学的世界を根底から自分の力で創り上げる」ということではないか。「創り上げていくには,納得できないことを覚えて受け入れようとしていたのでは,駄目だろう」,数学は難しいし,誰にでもやれると言えないのは本当だが,「人間が造ったものである数学が,人間に理解できないはずがない」と思うべきである。必ず「本当にそうだなあと思える理解の仕方がある」,ただし「理解の仕方や速さは,どうも人によるように思える」,「それが才能の差・能力の差というものかもしれない」,まあ「人間は自分が見つけた理由によって最も良く得心するものだから」,まずは「自分の学習法を工夫し,その学習法に熟達することが肝要だろう」と教えてくれたそうです。同感です。
大学で学ぶ学問としての数学は,5 千年以上の歴史を持ちます。巨大な体系です。一生かかっても一人の人間に全部を理解できるとは思えない。数学だけを一生やっている人間にとっても,そういうものなのです。数学科のカリキュラムは,巨大な体系をなすこの現代数学を最初の一歩(「文法」と個々の「単語」)から教え,4 年間で入口まではたどり着くことを目標にしています。入口と言いましたが,それだって十分に高度で,素晴らしい世界です。ところで,「到達度」と言いますが,学生たちが 4 年間でどこまでたどり着いたかには,実際には大きな個人差があります。上に述べた A 君の場合には,3 年生の前期には通常の大学院前期課程 1 年のコースを修了し,4 年生の夏休みには大学院修士課程 2年修了の学力を身につけるに至りました。A 君の場合,4 年生の後期には研究者の卵として,未知の課題に挑戦する「研究活動」に着手することになるでしょう。
A 君の場合,特別で,例外的であったのでしょうか。私には何とも言えません。A 君自身の説明ですが,「自分は,高等学校まではサッカーしかやっていない」,「大学には AO 入試で入学したので,大学のカリキュラムに着いていけるかどうか,自信がなく,本当に怖かった」,ただし「大学の数学が高等学校までの数学とは違うということは,少なくとも頭では承知していたし,そのことが嬉しくて大学数学科に進学した」,入学後は「実際,よく勉強した」,「寸暇を惜しんで勉強」したが,ここまでやれるとは「自分でも驚いている」,「予想もできなかった(高い)レベルに到達した」とのことです。そういうもんじゃないかなと思います。

私が以前に本学で指導した学生たち(学業成績優秀者が何人も居ました)に,高等学校までの学業成績を聞くと,必ずしも優秀ではないことが思い出されて来ます。それどころか B 君の場合,出身高校は底辺校です。大学に進学する人間が同級生に殆ど居ないというレベルであったということを聞いた気がします。結局,B 君は本学の博士後期課程まで進学し,博士の学位を取得して,現在は高等専門学校の准教授をしています。
今年の 2 年生の中には抜群に生きのいい学生 C 君が居ます。C君の場合,代数学分野だけの話ですが,楽々と 4 年生の前期のカリキュラムを修了しました。C 君は素質に恵まれた優れた人だと思います。
こうして,うんと素質に恵まれた人や,大学に入ってから恐る恐る,しかし猛烈な努力を開始した人など,前を見たり後ろを見たりしながら考えると,数学科の現行カリキュラムは間違っていないという気がします。難し過ぎるとかハイレベル過ぎるとかいうことはなく,分かる・分からないは,制度や教育の在り方の問題ではなく,個々の学生たちの,もっと別な,個人的な問題のように思えるからです。私の経験ですが,入学後の半年や 1 年間,どういう姿勢で大学の勉学に取り組んだかということが学生生活の質を分け,その後の展開の極端なまでの違いの決定的な原因になっている。実際,数学科の現行カリキュラムは志ある学生にとっては 2 年半でこなせるレベルであって,一般的な学生たちにとっても決して能力の水準を超えるような代物ではない。ただ,上にも述べたように,自分の勉強法を開発できるかどうかには決定的な「分水嶺」があり,そのためには,学生たちの意欲と努力だけではなく,出会い,つまり研究と教育に経験を積み熟練した教員による「個別指導」も必要であって,大学教育における少人数教育の存在理由があると思われる。大学教育の実質は,このような形で問われるのでしょうね。
こういった事情や数学科の姿勢は,入学した学生たちには折に触れて説明していますし,office hour や演習時間の利用に仕方についても,くどいほど説明していますが,触発されて動き出す学生はそんなに多くありません。一体全体,どういうことなのでしょう。
そこで思いつくのは,大学に入学して来る人々の中には,ひょっとしたら「もともと,大学で新しく何かを学ぶ意志がさらさら無い」人々も居るのではないかということです。大学に入ってから出会うであろう「難しいけれど,豊かで巨大な新しい世界」に対し,「わくわくするような思い」が無いどころか,いかなる期待も持っていないのではないのか。かといって,これに代わる関心や学生生活の理由があるわけでもない。そういう人たちも居るような気がするのです。それでは絶対に駄目だということは,既に上で述べましたね。実は非常に困惑するのですが,現実にはかなり多くの人々がそういう気分で大学に在籍しているように見える時がある。もともとなのか,残念ながら入学してからそうなったのかは分からないが,数学科の 2 年・3 年にはそういう状態に陥っている人々も少なからず在籍している。これは,難しい。指導する方が努力すればこういう人々に対してもなお,豊かで実りある教育が可能であるという意見に,残念ながら私は与しません。どうしたらよいかも,分かりません。
すでに大学生になっている皆さんにも申し上げておかないといけないと思うことは,数学科には素晴らしい世界が広がっているということです。6 号館の数学科のフロアには,世界に通じる「どこでもドア」がある。数学科の先生たち(私を含めて,全員とは言いません)がどれほど優れた世界的な学者であるか,ご存知ですか。大学数学科で出会う数学,このような数学は大学でしか出会えないし,大学に通わないで自学自習することは,かなり困難である。「大学生」として,そのような数学を学ぶ機会が得られたことは,もの凄く特権的なことなのです。大切にして欲しいなと思いますね。第一,大学の授業料は決して安くない。ご家庭の負担の重さも深く考えるべきでしょう。
大学で学ぶ数学が高校までに学んだ数学の発展だと言っても,高校までに学ぶ数学には,かなり無理をして学んでいる(教えている)部分があります。「学問としては十分でない」部分があり得るのですが,大学ではその足りない部分を補いながら,新しい数学を展開して行きます。企業の人から教えて貰ったことなのですが,大学で数学を「学ぶ,考える,工夫する,発明する,自分だけの発見がある,その喜びを他者に伝える」という訓練を受け経験を持った人は,実社会に出ても一味違った人間として成長するようです。多分この段階になってやっと「数学は,実社会で役に立つ」,では「どのような形で役に立てるか」,そして「この事実を,自分が社会で生きて行く際に,どのように有利に利用するか」ということが視野に入って来るのだと,私は考えています。始めから計算して,かくかくしかじかの役に立つから数学を学ぶというのではなくて。
例えば教員になるということも,「実社会で,数学(の力)を生かしながら働く」という大事な仕事の一つです。数学科では,入学してくる学生たちの 90%が卒業後に教員になることを希望しています。凄い値です。実際に教員になる人は 40%くらいかな。優れた教員・指導的な立場に立つことができる教員を養成する仕組みを作ろうと,数学科ではこれまでに多くの実績(魅力ある大学院教育イニシアティブ,大学院・学部 GP)を積み上げて来ました。実はなかなか難しいのですが,現在も長岡亮介教授を指導者に,懸命の努力を続けています。皆さんが,数学を深く学び,皆さんの内面に数学の花(「創造性」のことす)が開く鮮烈な発見の体験を持ち,数学全体への豊かな見識(世界観)に裏打ちされた学習指導ができる教員(素晴らしい先生です)として社会に巣立つこと,これも数学科・数学系の目標(存在理由)であると,私は考えます。日本社会もそういう期待(一人でも多くの優れた教員を育てて欲しいという要請)を数学科に対し抱いているのではないかと,私はいつも考えています。皆さんにとって,将来の進路としては他にもいろいろな道があり,教員になるだけが道ではありませんが,大切な選択の一つですね。
以上,大学とはどういうところか,新たに進学してくる人々にとってはどのようなことを想定しておくことが大切か,既に入学している人々にとってはどのようなことが大切か,今の私にできる限りの説明をしました。大学で学ぶ数学の内容については,十分には説明できなかったことは勘弁してください。別のところでお話しましょう。