後藤研究室

同僚への手紙(FDについて)

2007年11月8日

○○○○様

FDとは何のことか,実は私にも良くは分らないのですが,教育に携わる者達が,あるいは教材を工夫し,板書の仕方や発声,授業中の間の置き方,さらには,生徒・学生達への質問の仕方,試験問題やレポートの題材・量・質の選び方,採点評価の仕方など,ありとあらゆる面で授業方法と内容に工夫をこらし,基本的には自助努力によって,教育の質を高め,効果を挙げようとする営みを指す言葉ではないかと思います。

かって,選ばれた少数の人々だけが高等教育を受けることができた時代,あるいは現在でも,東京大学に代表される特別な組織,依然として学生達の資質が十分に高いということが期待可能であって,その内の比較的少数者だけが生き残れば良いと言う暗黙の了解があるような教育機関では,FDは必要でないだけではなく,学生達に媚びるものとして,もしかしたら有害でさえあり得ますが,一般大衆,即ち教育が必要とされ,実際にも効果がある人々を対象とする教育機関では,他者による批判・指摘・助言を含め,教員達の自助努力による教育方法・内容の改善は,必須の営為であるだけではなく,職務上の義務であると判断されます。

しかしながら,教育方法というのは大変微妙な技術です。対象がどのような人々であるかによって,同じ方法が適切であるかどうかの判断が異なって来ます。ある人々には大変有効であった方法が,他の人々を意気阻喪させ,駄目にするというか,スポイルすることも大いにあり得ますし,50人のクラスで授業をするとなると,同一の方法が全員に有効適切であることが期待できる可能性は,少なくとも我が大学では決して大きくはありません。

しかしながら,比較的評価しやすい項目もあります。学生の方を向いて板書内容を説明するかどうかとか,板書の字は丁寧であるかとか,板書の速さはどうかとか,授業内容の難易度や試験問題は大多数の学生にとって妥当であったかどうかとか,具体例は十分に提示されているかとか,応用は述べられているかとか,何のために今これを学ぶのかという動機付けは十分に説明され与えられたかとか,客観的な評価が可能な項目もあるに違いありません。

FDの理想は,そのようなかなりの共通性が期待される評価項目から入って,次第にデリケートな項目やテーマについても,教える立場の者が自ら考え工夫できるようになることを期待しているのであると,私は考えています。

現実には,教員達は自らの授業風景を生徒学生の立場から眺める経験は,映像に頼らない限り持ちえません。そのためか,完全に独りよがりの授業をしていても,自覚が無いというか,恬然として恥じない輩や,実はそれが信念に基く行為であって,他者の如何なる批判も受け付けず,学問思想の自由が仇となって,学生達がみすみす時間と金を無駄にし,苦痛を味わっている可能性さえあるにも係らず,他者は一切口を挟めないという不可思議な現象が特に大学教育にはあり得ます。

人間は他者の批判を噛みしめることによって成長する生き物ですよね。証明をすればそれで勝負が付くという世界に安住するためか,私達数学者はこの世の事柄に関しても,真実は自分に見えるこの真実唯一つであると信じ込んでいて,実際には自らの妄想(被害妄想?)的世界観・人間観に基づいて,判断行動しているにも係らず何らの反省をしないという傾向は,私を含めて,数学者としての才能・能力の如何に係らず,決して少なくないと思います。私はこのことに深い失望を感じます。

実は私は数学の授業にこそ,JABEEやGPAやFDが不可欠なのではないかと,最近思うようになりました。最終的には,教育に割くエネルギーを論文等研究業績と同等に評価する方法を工夫し,採用・昇格・退職等の人事に強く反映させる必要があると思うようにもなっています。

さて,教務委員会でどのような議論が行われるか,数学科内の議論や判断がどのようなものになるか予想もつきませんが,FDについて私見を述べさせて頂けば,概ね上のような所でしょうか。

ではまた。お元気で。

後藤四郎