後藤研究室

なぜ「教員になるのに,学力は不要」と思えるのか?

2007年7月8日

教育の最終目的は,「いかに生きる(べき)か」を教えることにある。

どんな既成の組織も通過儀礼無しには,newcomerを受け入れることはない。組織の原理に従い,組織の約束事を守ることに同意しない者を,構成員として受け入れるわけには行かないからである。国家社会も同様であって,新たに参加してくるメンバーには,一定の訓練(「躾」)を課す。義務教育に「学習者をタガにはめる」側面があるのはそのためであり,初等・中等の学校教育が持っているこの側面を否定的に捉えることは,誤りである。しかしながら,教育を受ける者に固有の「人としての幸福を求める権利」を蔑ろにして,「富国強兵」とまでは言わないが,あくまでも「教育の目的は,国家の発展と維持にある」とする姿勢は,既に近代化を達成した社会で国民の支持を得られる可能性は殆ど無い。わが国の社会では,そのような傾向が依然として強いように思えるのだが,国家が学習者を使い捨ての消耗品としか考えないような「役に立つ人材育成策」など,教育を受ける立場の者としては,受け入れがたいからである。やはり,教育は学習者の(現在と将来の)幸福のために行われ,自立支援を目的とし,最終的には自活していくための準備を整えることを目的とするという思想の方が,はるかに健全に思える。

既に出来上がっている社会に参加し,「その中で生きる」。Newcomerがそのために学ぶべきことは多い。まず自国の伝統と文化,建国の趣旨や歴史について深く理解することが必要であり,同時に,我々を取り巻く他国の歴史と文化についても深く知ることが必要となる。生きるためには「世界観」が必要だからである。しかしながら,わが国のように高度に産業化した社会では,それだけでは十分でない。科学技術に関する深い知識もまた不可欠なのである。

現代数学は科学技術だけではなく,政治経済・理工農学・心理学・金融・ファイナンスなど,非常に広い範囲の学問や現場で基幹構造となっている。この意味で,数学を学び身に着けることは,高度に産業化した現代社会を行き抜く上で,生存益のある武器を一つ手に入れることにあたる。理工農系だけではなく,多方面の人々にとって,必須の武器の一つなのである。

数学は変わった学問である。人間の頭の中にしか存在しない。多分,数千年前から始まり,無数の(ひょっとしたら何億人もの)人々が参加し,分担し,時間をかけて築きあげられた,巨大な知識の体系である。非常に多くの人の試行錯誤と手が入っている。それゆえにこそ極めて抽象的な概念と手法を駆使するにも関わらず,人間の頭の中にしか存在しないにもかかわらず,具体的な現実世界に適用可能であり,現実世界を制御する力を持っているのであろう。小学校から大学まで,教育機関において数学を教える人々の最も大きな職責は,数学という学問のこのような特性を学習者に伝え,理解させることにあると私は考えている。知識や解法パターンを覚えさせ,練習問題を解くことに熟練させることは,数学を身に着けさせる上で大切な方法の一つであるが,数学そのものではない。教えられたことの背景というか向こう側に,数学という形をとった「人類全体の巨大な知的ネットワーク」が存在していることを感知させ,理解させ,やがては必要に応じて,いつでもこのネットワークにアクセスする力を身に着けること,その方法を学ぶことが数学に限らず,学習の最終目標なのである。そのためにはどうすればよいか,これが学習者にとっても教授者にとっても,切実な大きな課題なのである。

このように考えるとき,教授者の知的能力(我々の場合には「数学の能力と知識」)には,これで十分,これだけあればよいというような境界がもともとあり得ないことは,明らかなことである。中学校の教師が数学を教えるにあたって,自分自身が中学校や高等学校で学んだ以上の知識を持たず,これらの知識の背景をなす広大な数学を知らず,知ることが必要でもないと判断しているとしたら,その人は1世代以上前の数学の「化石」を受け売りで教え,相変わらず解法パターンを記憶するよう強いているに過ぎないであろう。しかしながら,大学の学部学生や高校生で教職を志す人々の中に,教員としての不可欠の素養の一つに「教科に関する学力」を挙げる人は,実は少ないのである。「大学で学ぶような数学が,数学の教員として中学校で現場に立つとき,必要かどうか微妙なところである。」という不可思議な発言を,教員を目指しているという「高校生の言葉」として読んだ。では,数学を教えるのに他に何が必要であると,この生徒は考えているのであろうか。是非教えて頂きたいものである。

考え違いをしないで欲しいのだが,現代の大学学部は「学の蘊奥」を究める場ではない。大学学部で学ぶ数学も,決して高度な学問ではなく,依然として初等的な「入門」でしかないのである。中学校や高等学校のレベルから見れば,大学で出会う数学も,確かに高度に見えるかも知れないが,学習者が意欲を持っているかぎり(つまり,学習者の知的精神的年齢が身体年齢にふさわしい発育を遂げているかぎり),大学で学ぶ数学には,進学してきた高校生達が乗り越えられないような高い障壁が設定されているわけでは,決してない。特に今日のように,高等学校からの接続を重視したカリキュラムを大学が用意していることが当たり前となった時代には,なお更のことである。もちろんのことであるが,数学研究の先端に至るには,大学院に進学して,そこからさらに数年間に渡る,血のにじむような研鑽が必要となる。「創造的になること」,これが大学院で身につけるべき事柄であり,大学院教育の到達目標なのである。そして,このような「創造的経験」を持たない人には,化石ではない数学,「命ある数学」を教えることは,容易ではないと思われる。

例えば,真理の体系としての数学も,実際にはかなり単純な公理から積み上げられている。この過程を追体験したことのない人は,自らの内面にある数学の無矛盾性に十分な確信を持てないであろう。数学における「真理の相対性」もまた理解できないに違いない。証明とは何かを理解することなく,数学的主張にはなぜ証明が必要かも納得することなく,未熟な学習者に1世代以上前の数学の化石を受け売りで教え,解法のパターンを記憶するよう強いること,これこそは数学を暗記物に化さしめる最大の原因である。教授者がこんな調子では,日本の数学教育は瀕死の状態に陥りかねないと思う。

学問をした経験もなく憧れも持たない人物が中等教育の現場に立ち,1世代前の知識を「受け売り」で教える。実は私はこれだけは避けたいと思っている。日本の中等教育における数学教育の現実がそのような情けないものであるとは思いたくもないが,知的好奇心もなく,向学心もなく,学問的な向上心も持たず,学問や技術への敬意も持ち得ず,自分に誇りをもてず,自信もないし,進学意欲もない,そのような「人間性の発育を阻害され」,「実社会で生きていくための十分な準備もさせてもらえず」,「幸福になる権利を奪われた」多数の生徒を生み出しているのは,このような教育であり,指導であると,私は心の底から湧き出る憤りを持って,そう感じているのである。

わが国の教員養成制度と教員採用制度の現状も,実に不可解である。もっぱらこのような指導をする教員の輩出を目指しているのではないかと疑われるほど,不合理で悲惨なものに見える。優れた教員を育てるという意味では,東欧圏を含めた欧米諸国の努力には,比べようも無いのではないか。教員養成制度と採用制度における,大学院修了など「高学歴の不問」・「学力の軽視」などは,長期的に見て,教育成果に深刻な影響を及ぼさずにはいないであろう。国際競争力という点でも,欧米諸国には置いてきぼりにされインド・中国には水をあけられているが,まもなく韓国・東南アジア諸国にも抜かれる原因の一つとなるに違いない。この国の「偉い」人々は,一体全体この国をどうするつもりなのであろうか。

そもそもこの少子化の時代に,大学への進学率が40%前後で低迷していることは,高等学校までの教育が成功していないことの証である。その原因の一つが,教授者の「学力不足」にあるという主張は,私には明らかに正しいと思えるのであるが,数学教育界のお偉いさんを始め,親御さん・学習者・教授者の間にも,この意見に賛成するものが殆どいないというのは,理解しがたい。「赤信号,皆でわたれば怖くない」というけれど,21世紀はもはや国内だけが世界ではないのである。実に不思議な国である。