後藤研究室

数学科とJABEEプログラム

2003年4月3日

数学研究者の人生に教育が占める割合は,決して主要なものではない。私には,むしろ次のように思える。

教育を雑用とこころえ,何のために大学に来たのか判然としない無気力サラリーマン学生から,授業料はあり難く戴いて,学生達は神様ですと持ち上げながら軽蔑し,ろくな授業はせず,単位だけはすぐ出して卒業させ,学生達を「食い物」にしながら,自分一個の研究だけはしっかり継続し,優れた世界的な成果を挙げ,もっと羽振りが良く研究条件も良い大学に移ろうと全身で身構えている人間の方が,遥かに理解しやすいし,エネルギーを感じると。

そういう人間は,数学でしか生きる途がないと信じ込んでいるから必死になるし,日々を駆け抜けるように生き,良い仕事をすることも多い。私もかっては,間違いなく,そのような人間の一人であった。我々の中にもこういう人間が20%位は居る方が,凄烈な緊張感があって,好ましい。こういう連中は,必ずしも本学に長居しないかもしれないが,絶えず教員の他大学への流出と他大学からの流入がある方が,人間関係に馴れ合いや淀みが無く,好ましいと私は思う。

野心と名誉欲でギラギラしている若者は,まぶしい。ここが行き止まりという人間は,醜い。そういう人間ばかりというのは,全然気に入らない。大学や学生達のためと言って,教育を錦の御旗に,実際には自分の成長に既に自信をなくし,挑戦する心を失い,身の保全を優先する思考が蔓延しているのではないか。時代に取り残された大学の三流数学教室では,よくこういうことが起こるものである。15年以上前にどこかで見たことのある,思い出したくもない風景に近い。

数学科の若手教員達の殆ど全てが,他大学への移動をもはや想定してはいないだろう。視点が内向きになり,研究・研究・研究と,数学研究に唯事でない執着を示す議論が出て来ない理由の一つではないか。大学の営為は,学部教育だけにあるのではない。数学という学問には,若い間でなければ出来ない何かがあると,遂に私もそう思う。精々35歳位までが勝負である。ここが難しい所なのであるが,教育や管理業務に対する感受性もこの頃までに身に付け,育てておかないと,教育者や管理職として大成することは難しい。だから選ばなければならない。断言するが,若者にとっては,「大学が潰れようと潰れまいと関係ない,少なくとも自分は,数学研究者として生き延びる」という姿勢の方が,正しい。

我々はなぜ大学・研究所に職を求めるのか。他には数学の勉強を継続できる場所が無いからである。数学を教えることは,確かに生業の一部ではあるが,数学を教えることを人生の目標として,大学に職を求めたのでは無い。一生を賭けた目標は,別の所にある。大学が大学たる所以は,教員にこのような人生設計が許される所にあると,私は信じている。大学教員の職責は,学習意欲のない学部学生達に不本意に数学を教えることにあるのではなく,もっと遥かに崇高で巨大な何かなのである。

だから,このような「恵まれた」職は,「選ばれた者」達の特権である。私的幸福追及の手段である筈がない。30年間助教授職に居て,その間の研究業績が0というような悲惨な事例が,あって良いとは到底思えない。

そういう意味では,大学教員の職は「公的」なものであり,私物ではあり得ない。大学教員の適格性は,もっと厳しく問われる必要があるし,自らがその職に相応しいかどうか,常に問い続ける責任がすべての教員にあるだろう。丁度,「大学生である」ことが,入学試験に合格し授業料さえ払えば,誰にでも与えられる特権ではないように。

大学が潰れては困る。経営安定が重要課題となる所以である。また,優秀な助手・RAやPDは,研究の継続・発展に不可欠である。若い研究者からは,学ぶことが多い。本学の大学院学生の指導と教育には,多大のエネルギーが必要であるが,一方的な持ち出しになるとは限らない。彼等の学問的・人間的成長は,指導する者に深い大きな喜びをもたらすからである。彼等の指導のための悪戦苦闘の中で,人として学び,学問的にも得るものは決して少なくない。「教育」が学問と研究にとって,意味を持つ理由である。だが,学生達の資質と,特に「志」が低くなり過ぎるとき,指導業務に内面的に価値のある見返りを期待することは,次第に困難となる。学部や大学院の学生の資質がある水準を下回るとき,教員は希望を失い,「教育」は充実感のない虚しい営みと化し,単に給与を得る手段・「雑用」となるであろう。少なくとも私にとっては,疑問の余地無くこのように思える。学部入学者の「偏差値」高値維持に,大学としても,個人的にも,無関心ではおれない理由である。

この視点からは,数学科の状況は,危機的水準を既に突破しているのではないか。入学してくる学生達は「大学で数学を学ぶ」ことの他に,何を期待して進学して来るのだろう。学問をすること,学問をして,出来れば,人間性を鍛え上げることの他に,用意されたカリキュラムは大学には存在しないのである。

確かに,大学は学生達に「勉学と学習の機会」を提供はする。良質の機会を提供することは,大学の責任であろう。だが,入学許可は機会受領資格の認定でしかない。卒業や修了を意味しないのである。教員達も,受け入れたからには,至れり尽くせりの手助けをして,何とか卒業させなくてはならないと考えることを,そろそろ止める必要がある。

大学に用意されている「勉学と学習の機会」を上手に利用するかどうか,どのように活用するかは,学生達の責任であり,大学が関知することではない。勉強するかもしれないし,しないかもしれない。どちらにするかは,学生達が自分で選択し決定すべきことであって,学生達本人の責任である。大学や教員が関与すべきことではない。大学教員には他にも,大切果たさねばならない多くの仕事があると,私は考えている。

どの学生にも,自分を生かし伸ばす機会が,十分に与えられる大学教育が望ましい。だがこのことは,全ての学生がほぼ同レベルの学力を付けて卒業するということを決して意味しない。多分,一人一人の学生の資質・能力と努力が生かされるような,指導と教育が望ましいことは,私も認める。優れた学生は優れた学生なりに,劣等な学生は劣等な学生なりに,満足して卒業していく仕組みが必要だろう。だが,高等学校までの塾通いとは違い,成人を対象とし,個人指導をするわけではない大学に出来ることは,均等な勉学機会を提供することだけではないだろうか。与えられた機会を生かせるかどうかまでは,我々が保証すべきことではないし,保証できることでもないのである。

単位認定,進級判定や卒業認定は,与えられた勉学と学習の「機会」を生かしながら学生達が成し遂げた「成果」で計るべきである。取得単位,進級や卒業証書は,次の勉学や進路のための「権利」であり「資格」である。成し遂げた「成果」以外に,評価基準があるとは考えにくいではないか。機会が公平に与えられる限り,成果に基づく評価が不平等になることは当然だろう。「総合的評価」という得体の知れない,根拠が薄弱で,外部の人には説明できない評価法を止めるときも,間近に迫っている。

「社会に出たとき,大学の成績は関係ない。学校では劣等生であっても,社会に出てから活躍している人や成功した人は,幾らでもいる。」等と言って,大学における学業成績評価を教員自ら軽んずるような言動は,不愉快極まりないものである。厳に慎むべきである。そのような人が居ることは確かだろうが,実はその人なりに大変な頑張りをやってのけたのではないか。頑張ることが出来なかった人も,沢山いるに違いない。やはり,優秀な成績で卒業したものの方が,より多く社会に出てから活躍し成功しているのではないのか。

現代日本は不思議な社会であって,学業における偏差値が高い学生は,他の様々な能力でも優れていることが多いという,統計結果がある。大学の学業成績は,主に学習能力と学習努力を計っているのであって,社会人として成功するための能力,例えば創造性や社会性,機敏な行動力や判断力,経営に対する感受性,指導力などを計っている分けではないが,これらの能力と学業成績の間に,強い相関関係があることは,常識である。成績が悪い学生達を励ますために,言うのであればともかく,大学における学業成績が,長い人生において殆ど無価値であると,真にそう信じるのであれば,大学での成績評価は一律「可」とすべきであろう。

腹の立つことに実は,「この頃しきりに思うこと」に書いた状況は,少しも改善されていない。最近は,教員達の方の資質の問題にも,気になる点が多い。数学科にこそ,JABEEプログラムに相当する何かが必要なのではないか。皮肉ではなく,そう思う。