後藤研究室

新たな役割の発見と創造に向けて

2004年4月2日

4年制の大学が500校を数え,大学進学率が60%に迫る時代には,辛うじて学部教育が成立するだけと言うべきか,学部教育といっても名ばかりという大学が多数出現する筈である。カリキュラムも学生の資質も教える教員の意識も,かって「15の春は泣かせない」をスローガンにした全入高校と大差ない大学が出現し,これを積極的に売りにする輩が現れるに違いない。大学と呼ばれる組織ではあっても,教育目標をどのように設定するかは,一概には捕えられず,個々の大学によって様々なものになることは避けられないであろう。とは言え正直なところ私は,そのような大学には籍を置かないで済むよう,心から願うものである。

有力私大の多くは,現在の大学「学部」が40年前の「高校」に近いことをよく知っていて,国家と社会のニーズは,研究に基礎を置いたより質の高い高等教育,即ち「大学院大学」教育へと移行して行くことを見越し,これに対処する戦略を既に採用している。

明治大学の実状は,どのようなものであろうか。お茶の水から聞こえてくる話は,いつもいつも学部と学部教育の話だけである。明治大学は,「教育型大学」に安住する方針を採用し,COLも採択されたことであるし,「誇りを持ってこの道を生き抜く」決心を固めたのであろうか。だがこの方針はマラソンに喩えると,先頭集団に追いつくことを諦め,3位集団のトップを走ろうという作戦に似ている。2位集団に追いつこうとする上昇意欲を失うと,3位集団にも離され,4位以下に落伍することも有り得るのである。

明治大学現学長の方針には,かって大学院を重視すると言う項目があった。研究に重点を置いた「研究型大学」の道も,選択肢に残すという方針なのであろう。では,どうしたら充実した研究が可能であり,どうしたら大学院と学部の間に実り豊かな連携と緊張関係を構築できるか,お題目や掛け声だけではなく,真剣に考え,道を探さなければならない筈である。だが,学長・総長・教務理事に代表されるお茶の水の人々にとって,明治大学とはお茶の水地区の「学部」(農学部も含まれているかも知れない)のことである。精々,実業学校「専門職大学院」が含まれるに過ぎないようだ。ひょっとしたら研究面では,彼等は既に第一線を退いていて,そのため,彼等の目には研究が別の世界・他の大学が行う営みとしか写らないのではないかと,私はひそかに疑っているのである。

実際のところ,我が大学では,大学院は依然として飾りであり,学部の付けたりである。極言すれば,無いと世間体が悪い上に,まともな大学扱いをされないから,設置しているだけである。大学院に執着し,これを育てる覚悟は殆どない。だから,大学院には人事権も予算もなく,大学院長は大学院委員会の議長であるだけで,研究科連合体の象徴ではあっても,何の権限も持たせていない。研究費の配分と管理を含め,研究を一元的に統括する全学的な「総合研究機構」は,本学では依然単なる願望であるか,さもなくば,空想である。

理工学研究科と理工学部にとって,この状況は,まことに不幸なことである。この大学には,大学院が学部にとって重い意味を持ち,何とか機能している部局は,理工学部しか存在しない。(他に,経営学部がそうであるという意見もある。)他の学部の理解と応援が得られないのであるから,対処の仕様が無いのである。

これ程の大学が,どうしてこんなことになるのだろうと考えて見るとき,当たっているかどうかは心許ないし,それだけが原因であるとも言えないではあろうが,思いつくことが一つある。明治大学は創立の志が時代遅れになって久しく,そのことがお茶の水の空気を淀ませているのではないか,ということである。帝大を圧倒する高い理想と理念を,創立時に欠いていたのが,敗因なのではないか。

本学の前身は法律専門学校であり,(国家に対する国民の)「権利・自由・独立・自治」の主張が,建学の精神であると聞いている。今でも我が大学では,法学部が筆頭学部をもって自他共に任じているが,これらの理念は少なくとも創立時には,法科における「高等教育の普及」という,時代の強い要請に上手く適合していたに相違ない。だが今日では,これらの諸理念は依然大切であるが,自明の概念であり,聞いて感動するほどのものではない。建学の精神は既に,国家レベルで成就しているのである。だから,近代化が達成された後もなお,時代を越えて国家社会を導き,聞く人の心を打つ,高い理想を,我が大学が創立時に提示したとは言えないだろう。例えば,明治大学の校歌は勇壮で,素晴らしい。だがこの校歌が歌い上げている人間像も(実は私にとっては,今なお魅力的で,尊敬に値するのではあるが),近代社会が成立する前の理想的人格であって,もはや古い。現代日本では全滅種であって,実在しないと思われる。

このように考えて来ると,我が明治大学の日本社会における役割は,既に一段落ついているということが,見えて来る。求められているのは,日本社会における「新たな役割」の発見と創造である。これ無しに,明治大学に限らず(独立法人化するとかいう,長期に渡って税金で経営されて来た大学群を含めて),いかなる大学にとっても,国民や社会に対し,説得力ある,実り豊かな将来構想を提示することは,もはや不可能なのではあるまいか。現状のまま,新たな理想と希望を示すことなく,徒に生き残りだけを模索しても,大学だけではない,そもそもこの国自体が無事に21世紀を生き延びることすら,実はかなり難しいのではないかと,私には思えてならないのである。